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和歌山にちなんだ金メダリストDESCRIPTION based on LAW

前畑 秀子
種目 : 水泳 女子 200メートル
所属 : 椙山(すぎやま)女学園
オリンピック時の年齢 : ロサンゼルス 18歳 ベルリン 22歳
生年月日 : 1914年5月20日(1995年2月24日 没)
身長 : 158.2センチ
出身 : 和歌山県
出身校 : 椙山女学園

オリンピック参加記録
1932年 ロサンゼルスオリンピック
  水泳 女子 200メートル 平泳ぎ 銀メダル
1936年 ベルリンオリンピック
  水泳 女子 200メートル 平泳ぎ 金メダル

・ライバル ゲネンゲルとの大接戦
1936年のベルリンオリンピック女子200メートル平泳ぎ決勝は、現地時間、午後4時に開始された。前畑は6コース、ライバルのゲネンゲル(独)からのスタートとなった。
実力の伯仲する二人のレースは、予想どおり前畑とゲネンゲルとのトップ争いとなった。50メートル、100メートルの途中経過ではわずか半ストローク差で前畑がリードするという大接戦である。後半150メートルから前畑は次第にピッチを上げ、2メートルリードしていた。一方ゲネンゲルもラストスパートに入ると、ぐんぐん前畑に迫る勢いとなる。しかし、前畑の力は最後まで落ちることはなく、ひとかきの差で優勝、日本の女性選手として初めての金メダルを獲得した。

・「金メダルを取れなかったら死を」
 前畑は自宅近くの川で古式泳法に親しみ、名古屋市の椙山女学園に入り、西洋式水泳の訓練を受けた。18歳のときにロサンゼルスオリンピックに参加、このときわずか0.1秒差で惜しくも銀メダルであった。その後、負けず嫌いの彼女は、冬でもかまわずに冷たい水の中を毎日何キロも泳いで練習を続けた。そして、再度の挑戦となったベルリンオリンピックで金メダルを獲得した。当時彼女は、「金メダルを取れなかったら死を」という覚悟でベルリンへ向かったと言う。

・現役引退後はスポーツ振興に大きく寄与
現役引退後、母校で指導にあたり、昭和40年代からは選手層だけでなく一般の人々への水泳指導をする「ママさん教室」なども開講、スポーツ振興に大きく寄与した。


古川 勝
種目 : 水泳 200メートル 平泳ぎ
所属 : 日本大学
オリンピック時年齢 : 20歳
生年月日 : 1936年1月6日(1993年11月21日 没)
身長 : 174.1センチ
体重 : 68キロ
出身地 : 和歌山県
出身校 : 日本大学
オリンピック参加記録
 1956年 メルボルン 水泳 200メートル 平泳ぎ 金メダル

・意外なライバル
古川は6000cc近い肺活量を持ち、なるべく顔を出さずにもぐり続ける潜水泳法として知られ、金メダル確実としていわれていた。しかし、200メートル平泳ぎの予選で思わぬライバルが出現した。
それは以前日本にも来たことがあり、潜水泳法を知るデンマーク出身のグライエである。当時の古川はグライエのことを「日本に来たこともあるので潜水泳法を知っているとは思っていたが・・・」と語り、これほど力のある選手であると思っていなかったらしい。そのグライエは、予選では古川と同じ組で隣の6コースであった。この日5コースに出た古川は例によって40メートルもぐりっぱなし、スイスイと水中を突き進んだ。ところが隣のグライエは古川が浮かんでもまだもぐっている。そして、古川の2、3メートル先で顔を出した。 それを確認し、古川はまたもぐった。グライエもまたもぐった。50メートルのターンはグライエの先行。100メートルのターンでもグライエの先行だった。110メートルに来たところでようやく古川がグライエと頭を並べた。そして、150メートルのターンでは古川がわずかに先行。しかし、グライエも負けずに追いついてくる。もぐっては浮き、もぐっては浮きのデッドヒートとなりゴール前になっても予断を許さなかった。そして、ほぼ同時にフィニッシュ。古川が勝ったが、わずか0.3秒差のレースであった。

・「潜水泳法」は決勝でも力を発揮
決勝では、古川は予選のレース内容から、グライエをマークしていた。しかし、100メートルのターン前までトップだったグライエは、ターンの後、オーバーペースのためか疲れて遅れ始めた。このあたりのレースから7コースのユニチェフ(ソ連)が古川に迫り、一時は古川より前に出るほどの勢いを見せた。しかし、170メートルから古川はラストスパートに入り、追いすがるユニチェフを最後の10メートル、得意の潜水で一気に離し、フィニッシュした。


早田 卓次
個人データ
種目 : 体操競技 つり輪
所属 : 日本大学
オリンピック時年齢 : 24歳
生年月日 : 1940年10月10日
身長 : 160センチ
体重 : 58キログラム
出身地 : 和歌山県
出身校 : 日本大学
オリンピック参加記録 1964年東京
  体操競技/団体総合 金メダル
  体操競技/個人総合 第8位
  体操競技/種目別個人・つり輪 金メダル

・雰囲気にのまれることなく金メダル
つり輪の種目別決勝は、団体総合のつり輪の演技で獲得した得点の上位6人で争われた。当時は、団体総合つり輪の演技の得点の半分を持ち点とし、それに決勝の演技の得点を加算して順位が決定されていた。持ち点トップは、すでに個人総合で金メダルを獲得していた遠藤幸雄。それにメニケリ(イタリア)、早田が続いていた。遠藤はすべりだしからすばらしい演技をしたが、2回宙返り下りの着地で両手をつく失敗をして結果的に9.500。メニケリは見事な力技を披露し、9.700をとった。そして最後に登場したのがオリンピック初出場の早田。遠藤の失敗の後で堅くなってもおかしくなかったが、十字懸垂、上水平を美しく決め、つづく倒立で揺らぎながらも着地は完璧に決めた。結果は4人中2人が9.800をあげ、メニケリと0.05の差で金メダルであった。

・開会式が誕生日
東京オリンピックの開会式は1964年10月10日。早田が生まれたのは1940年(昭和15年)10月10日。早田は開会式の日に24歳の誕生日を迎えている。出身校である日本大学では、助手として遠藤幸雄が勤めており、教師と学生という立場であったが、ともにオリンピックを目指して練習に励むことになる。遠藤は当時から早田の平行棒は自分よりも上手いと思っており、お互いの立場を超えていっしょに練習をしていた。東京オリンピック時は早田も遠藤と同じように日大の助手になっていた。


宮本 恵美子
個人データ
種目 : バレーボール
所属 : 大日本紡績
オリンピック時年齢 : 27歳
生年月日 : 1937年5月10日
身長 : 173センチ
体重 : 53キログラム
出身 : 和歌山県
出身校 : 和歌山県立和歌山商業高校
オリンピック参加記録:1964年 東京
  バレーボール 女子

・スパルタ訓練
日本女子バレーボールチームは、東京オリンピック中もっとも注目された選手団であった。「東洋の魔女」の異名を持ち、勝って当たり前といわれてきた。「鬼の大松」と言われる厳しい監督のスパルタ訓練は、次のようなメニューであった。まず、朝8時半出勤、社員としての仕事を午後4時半に終え、練習開始は午後5時。午後6時半に空腹を抑えるためのおにぎりを食べ、5時間以上の練習の後、11〜11半に練習を終えて夕食を取る。食後は洗濯。寝るのは午前1時から2時。5時間あまりの短い睡眠の後、ふたたび8時半出勤をする。

・東洋の魔女
1959年、女子バレーボールのルールが変わり、9人制から6人制に移行した年、全日本総合女子選手権大会に優勝。翌1960年、実業団選手権、総合、近畿総合、インドネシア遠征試合中の全18試合を連勝する。1961年に実業団選手権、三大陸選手権大会と欧州遠征試合をやはり完封勝ちして帰国したときには、大松のチームは世界的に有名になった。「東洋の魔女」というニックネームがつけられたのはこのときである。
それからは、「追われる身」となり、一時も気が抜けなかった。事実、ソ連のバレー関係者に尾行されて、試合の様子をあらゆる方向から8ミリカメラで撮られるなどして調べつくされ、選手、監督ともども精神的にダメージを受けていた。

・回転レシーブ
打ち込まれたボールを絶対に拾い上げる「回転レシーブ」が考案されたのはこのときである。ボールが来た瞬間に横っ飛びし、返したと同時に、もとの体制に早急にもどるため自ら転んで立ち上がる。9人制のときは守備位置を守ってくれる人がいるからよいのだが、6人に減ると後ろで守っている者が欠け、守備が手薄になる。ルールが変わったことにより編み出された大松のアイディアである。練習当初は選手達に青あざや生傷が耐えない状況であったが、座布団を腰や肩にまきつけて練習を行い、半年ほどして、全員が回転レシーブをマスターした。

・「東京オリンピックまで」
東洋の魔女としての栄冠を手に入れ、河西昌枝、宮本恵美子のベテラン選手、そして大松監督は引退を決意していた。体力の限界を感じていたからである。しかし、大松は2選手とともに、引き留められる。「東京オリンピックまで」という約束させられての再出発であった。主将の河西は、オリンピック目前の7月に父親を亡くしたが、お通夜の翌日から練習に参加。「私たちは負けるために練習していたのではない」が信条で、監督の大松から感謝されるほどであった。


岡村 輝一
個人データ
種目 : 体操競技
所属 : 紀陽銀行
オリンピック時年齢 : 24歳
生年月日 : 1948年5月27日
身長 :
体重 :
出身 : 大阪府
出身校 :日本体育大学
オリンピック参加記録 : 1972年 ミュンヘンオリンピック
体操競技/男子団体総合

・規定演技で宿敵・ソ連をリード
8月27日、規定演技に臨んだ日本チームは、チェコスロバキア、東ドイツ(現・ドイツ)など5チームとともに最終グループで出場。その前のグループに出場した宿敵・ソ連チームはすでに演技を終え、得点は282.20。自由演技を得意とする日本チームは、規定演技でソ連に2ポイントの差をつけることができれば安全圏、最悪でも動転で終了できれば総合優勝は十分可能であると見られていた。演技を始めた直後日本の選手たちにやや硬さが見られたが、つり輪、跳馬、平行棒と、演技が進むにつれて普段の実力を発揮していった。鉄棒では、力強い演技を次々に繰り広げ、着地もピタリと決めて全員が9.40以上をマーク。なかでも加藤澤男はこの日最高の9.85ポイントをたたきだし、観衆から大きな拍手がおくられた。余裕のムードがただようなか、日本チームは残るゆか運動、あん馬でものびのびとした演技を披露。苦手のあん馬をソ連と同点で切り抜けたほか、他の5種目すべてでソ連を上回り、合計得点が285.05という高得点を獲得した。

・自由演技
ソ連チームに2.85ポイントのリードを確保して規定演技を終えた日本チームは、中1日おいた8月29日に自由演技にとりかかった。日本チームが苦手としているあん馬では演技開始早々、1番手の岡村輝一がもたつき、続く塚原もバランスを崩すなどのミスが出てしまい、得点として、8.95、8.70とともに8点台の低得点。この結果から監督の竹本正男の表情が曇ったが、3番手のベテラン・中山彰規が安定感のある正確な演技で9.40を出して不安を一掃した。ここから日本チームはすぐに立ち直りを見せた。一方、先に演技を終えていたソ連チームは、ゆか運動でクリメンコが尻もちをついたほか、エースのアンドリアノフが場外に飛び出すなどのミスが続出し、いまひとつの結果であった。

・史上初のオリンピック4連勝
日本チーム最後の演技は得意の鉄棒。あん馬、跳馬で力を出し切れなかった塚原が巻き返しに出てウルトラCを連発。演技の締めくくりは独自に開発した「ムーンサルト」で着地をきれいにきめ、9.90の高得点を獲得した。この結果、日本チームはソ連に対して予想を超える7.20の大差をつけて団体総合優勝を決め、史上初のオリンピック4連勝を達成し、世界選手権を含めると、7連勝を達成した。

・ブランデージ会長も感激
オリンピックで4連勝を果たすことがいかに困難なことであるかは、大会役員も十分知っていた。それはIOCのブランデージ会長も同じだった。貴賓席で観戦していたブランデージ会長は、高度な技を次々に連発する日本チーム日本チームの金メダルが確定すると、側にいた日本人に「ニッポン、バンザイ」と日本語で語りかけるほど、力をこめて見守っていたのである。さらに、表彰式になると自ら「私にやらせてくれ」と、メダル授与を買って出るほどの感激ぶりであった。長年、IOC会長としてオリンピックムーブメントを推進してきたブランデージにとっては、ミュンヘンオリンピックが最後の大会となった。

野村 豊和      
個人データ
種目:柔道70kg級(中軽量級)
所属:博報堂
オリンピック時年齢:23歳
生年月日:1949年7月14日
身長:163cm
出身:奈良県
出身校:天理大
オリンピック参加記録:1972年 ミュンヘンオリンピック
レスリング70kg級(中・軽量級)金メダル

・「必殺技」の背負い投げ
野村の得意技は「巴投げ」「小内刈り」などがあげられるが、なかでも鋭い切れ味に定評があたのが「背負い投げ」だった。
強い引きつけから姿勢を低くし、一瞬のうちに相手を投げ飛ばす。しかも状況に応じて左右どちらからでも自由に背負い投げを打てるという強みもあった。背負い投げは野村の「必殺技」だったのである。

・無傷で準決勝へ
相手につけいるすきを与えないまま、予選B組の野村は無傷で準決勝へ進出。一方、予選A組を勝ち抜いて準決勝にコマを進めたのは、東ドイツのヘトガーだった。
準決勝の組み合わせは、野村に敗れたあと敗者復活戦で勝利をおさめたザイコウスキーと、予選A組の勝者ヘトガー。そして野村にはA組から敗者復活戦にまわり準決勝に進んできたソ連のノビコフが対戦することになった。ノビコフは、野村がもっともマークしていた選手である。

・ノビコフとの準決勝
準決勝2試合、ノビコフに向かっていった野村は、積極的な攻撃に出た。試合開始25秒、野村がすばやく背負い投げを打ち、「技あり」が決まったかに見えたが、ジャッジはそのまま。2分24秒、ふた泰野村の背負い投げが飛んだが、「一本」ではなく「技あり」。3分39秒、ようやく背負い投げをしかけ、「技あり」が宣され、野村の「合わせ技」による一本勝ちとなった。

・27秒のドラマ
金メダルをかけた決勝戦では、ついに「必殺技」を披露した。右から技に入るとみせかけ、瞬時のうちに左から背負い投げに切り替えた。対戦相手のザイコウスキーは何もできないままあっという間に空中に舞っんだった。決勝戦は、わずか27秒のドラマであった。
野村が金メダルを手にするまでの試合時間は、予選、準決勝、決勝あわせてたった11分55秒にすぎなかった。

野村豊和選手は、オリンピック後、和歌山で高校の体育の先生として活躍され、退職後は和歌山で道場を運営されている。オリンピック3連覇した野村忠宏選手の叔父にあたり、まさに柔道一家。

森末 慎二
個人データ
種目 : 体操競技
所属 : 紀陽銀行
オリンピック時年齢 : 27歳
生年月日 : 1957年5月22日
身長 : 170センチ
体重 : 66キログラム
出身 : 岡山県
出身校 :日本体育大学
オリンピック参加記録:1984年 ロサンゼルス
体操競技/男子団体総合 3位
体操競技/男子種目別・跳馬 銀メダル
体操競技/男子種目別・鉄棒 金メダル

・思わず男泣き
森末は岡山県関西高校から日本体育大学に進み紀陽銀行に就職したが、在学中は3度の足のけがに泣き、日体大が優勝しても彼だけはカヤの外であった。そこでようやく手にしたオリンピック代表の切符だった。森末は歌が好きで、選手団の中では陽気な男であったが、ロサンゼルスオリンピックの鉄棒の演技が終わったとき、なぜか涙がこぼれた。表彰式でも嬉しさがこみあげて涙が出た。3位となった具志堅が笑顔で祝福してくれるのがさらに嬉しかった。大会終了後の12月8日日体大後輩の体操部員、近藤典子さんと結婚。金メダルが典子さんへの何よりのプレゼントとなった。

・オリンピック史上初のトリプル10点
森末が鉄棒でオリンピック史上初のトリプル10点を記録して、種目別チャンピオンとなった。ナディア・コマネチ(ルーマニア)がモントリオールオリンピックでの段違い平行棒で、団体規定、団体自由、種目別のすべてにおいて10点満点を記録したのが史上初のパーフェクトな演技であったが、森末は男子としてオリンピック史上に残る大記録を打ち立てたのである。

・非の打ちどころのない10点
鉄棒は森末が最も得意とする種目であることから、団体規定、団体自由で10点をマークしたことから最終演技に期待が集まった。逆手振り出しから入った森末は、連続トカチェフを決めたあと、逆手懸垂で体を後方に振り上げ、体の反動を利用して第開脚で鉄棒を飛び出し、鉄棒上で体を半ひねり、ふたたび懸垂となるマルケロフで9千人の観衆を魅了し、後方伸身2回宙返り下りで着地した。今大会の体操競技では首を傾げたくなる10点も目立ったが、森末の演技はまったく非の打ちどころのない演技であった。

・何としても世界一に
森末は競技前日、着地で団体自由で見せた3回宙返り下りを使うかどうかを迷っていた。それは、前年の世界選手権で団体規定、自由でトップに立ちながら、最終種目の着地で手をついてしまい、4位に後退した苦い経験があるからだ。「ロスの鉄棒の種目別では、同じテツを踏みたくない」と世界選手権の翌日から、伸身2回宙返り下りの2つの着地を想定して練習に取り組んだ。最終的に体操を始めるきっかけとなった鉄棒だけは、何としても世界一になりたいと考え、確実な「後方伸身2回宙返り下り」を選んだ。




参考文献:101個の金メダル −オリンピックにおけるニッポンの活躍−
ISBN4-88317-344-5