前畑秀子(兵藤秀子)

 和歌山県が誇る幾多の名選手の中で日本女子水泳の草分け的存在で、日本オリンピック史上、女子金メダリスト第一号の選手である。

 前畑選手が日本を代表する名スイマーと評価されるのは、去る昭和11年8月10日、第11回ベルリンオリンピック女子200m平泳決勝で、ドイツのゲネンゲル選手と大接戦の末優勝し金メダルを獲得した。其の接戦の模様を実況放送したNHKの河西アナの「前畑ガンバレ」の熱涙溢れる名放送に当時の日本国民を感激の渦にした以来の事である。
兵藤秀子さん自身の自叙伝(1981年)「前畑ガンバレ」を中心に前畑選手の一端を探索する。

 前畑選手は大正3年(1914年)5月30日、今の橋本市古佐田に生まれる。豆腐製造業の父福太郎、母光枝の三男一女の長女として生まれた。橋本小学校に入学以来暇さえあれば家の近くの紀ノ川妻ノ浦に遊び水泳に興じた。小学校5年の時、大阪浜寺プールに於ける近畿学童水泳大会50m平泳で46秒の日本新記録を樹立、小学6年、大阪築港プールでの近畿学童水泳大会で100m平泳1.38秒の日本新記録、更に同校高等科1年、天王寺プールでの全日本学童大会で、100m平泳1.36.0(日本新)、高等科2年大阪築港プールでの水泳大会100平泳1.22.2の日本新を樹立した。

 昭和4年(1924年)15才の高等科2年、汎太平洋女子オリンピック大会(日本、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア)での200m平泳3.12.4の日本新樹立、昭和5年勧誘されて名古屋の椙山女学校3年に編入学して本格的水泳練習に入った。

 昭和7年(1932年)ロサンゼルスオリンピック大会、200m平泳3.6.4で2着(日本新)、橋本小学校同級生の小嶋一枝(城)も100m自由形5位に入賞、妙寺小学校の守岡初子(久保)選手等と共に活躍した。昭和11年(1936年)ベルリンオリンピック大会での200m平泳決勝に念願の金メダルを獲得(3.3.6)した。このレースでドイツゲネンゲル選手とのデットヒートの末、念願の金メダルを獲得した。このレースが「前畑ガンバレ」の名放送となった

 世界一の念願を果たした前畑選手は、名古屋で医師兵藤さんと結婚し、二女と三人の孫と共に、おばあちゃん生活の中でも「雀百まで踊りを忘れず」とか、名古屋瑞穂スイミングクラブでの水泳指導者として、後輩の水泳指導に専念して、おばあちゃん指導者として話題の人となっていた。兵藤さんは、話が上手で独特の巧妙な話術に選手時代の情熱をプラスして、聞く者を魅了し説得力があった。
元気一ぱいの、オリンピックチャンピオンも(年)と病気には勝てず、平成7年2月24日80年の栄光の人生を閉じた。兵藤さんの面影を忍ぶ毎になつかしさがこみあげて来る。今尚彼女の人柄が私の心に生きている。“前畑ガンバレ!!”いつの世までも。

(紀州・和歌山水泳史誌 P199~ 池田岩夫著)